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| 石塔群の謎−百庚申(ひゃくこうしん)− 【Q】 みなさん、こんにちは! 春3月、各地から花便りが届く頃となりました。この時期、花粉症の私にはつらい季節ですが、今年は花粉の飛散が少ないせいか、「花めぐりに出かけてみようかな〜」なんていう気持ちの余裕も・・・。みなさんは、いかがですか? さて、今月は調査依頼が届きませんでしたので、私の気になる〈?〉を解決します。 【A】 柏駅から東武バス布瀬行きに乗って30分、沼南町の手賀東小学校入り口バス停を通り過ぎると、おやっと思う光景に出合います。左側に続く林沿いに、同じような形の石塔が延々と・・・、その数なんと97個!バスを降り、その石塔一つひとつをたずねてみると、〈庚申〉〈青面金剛〉という文字や何本もの手をもつサルにも似たユニークな顔が刻まれています。 この石塔群、地元では〈百庚申〉と呼ばれていました。文政7年(1824)から明治8年(1875)までの51年間に、地元・布瀬村の人々が造立したものだとか。それらは1世紀以上の時を経て、所々崩れてはいるものの、それでも胸を張るように整然と一列に並んでいます。その姿は、まるで「よそ者たちよ、ここから先は一歩も村の中へ立ち入らせないぞ!」と、うちそろって護衛しているかのよう。何とも不思議な光景です。 そもそも、庚申信仰は古代中国の道教に源を発する信仰で、〈三尸(さんし)説〉という教えに基づくもの。「人間の体の中には三尸という虫がいて、60日ごとに巡ってくる庚申の夜、人が眠っているすきに天に上り、人間の悪業を神さまに告げ口する。告げ口された人は寿命を縮められてしまうため、庚申の日には身を清め徹夜をして三尸の昇天を防ごうとした」ことが始まりだそうです。 日本では平安時代の初め、貴族の間から〈守(しゅ)庚申〉と呼ばれる行事が起こり、室町時代には仏教と結びつき、守庚申は〈庚申待(まち)〉といわれるようになりました。また、この頃、本尊の仏や菩薩を拝み、3年連続して庚申待をしたら供養塔をたてるという定めもできました。この供養塔が、すなわち庚申塔なのです。 時代は下り、江戸時代には修験道や神道とも結びつき、様々な形の庚申信仰が行われるようになりました。その信仰は貴族や武士層から農民や漁民、町人にまで広がっていったということです。各地で組織された〈庚申講(こう)〉という集まりは宗教的な意味合いのほかに、ともに飲食し懇親を深める、いわば公に認められた息抜きの場として、また講員それぞれが持つ悩みの相談や解決の場として、地域共同体の結束力を高める側面も持ちあわせていたようです。 江戸時代後半以降、庚申講は特に利根川の中流域で盛んに行われるようになり、百庚申が流行しました。今でも、沼南町のほか、取手や我孫子、印西、鎌ヶ谷地域では、整然とたつ百庚申の姿を目にすることができます。 さて、次回の〈庚申〉は4月11日。わたしの口から三尸が飛び出し、みんなに悪口を言いふらされないよう、寝ないで???しなくちゃ!。 ◇text by FUJITA |
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